Perfumeは、女性版SMAP型のアイドルだ!

 五月末日と言うことで、5月の最近の投稿記事のまとめです。


上京したぱふゅ〜むの所属事務所には、先発アイドルグループに、実力もあるBOYSTYLEBuzyらがいた。つまり、事務所所属のアイドルグループとしては、同時代的にも、ぱふゅ〜むの存在は、正統的アイドルからは、三枚目、三番手ほどの存在でしかなかった。これは、オーディションから落ちた子を寄せ集めた二番煎じのモーニング娘。のようでもあり、光GENJIの陰で、埋もれてしまいそうだったSMAP型アイドルのようでもある。しかし、こうした苦しい状況の、迷い子たちというものは、新しいものを生み出すパワーを秘めているわけだ。

 ぱふゅ〜むは、上京する前の広島時代から、そうした状況は、ある程度聞かされて知っていたのかもしれない。そして、元々、ぱふゅ〜むは、正統的なかっこいいアイドルよりは、独自の元気で五月蠅いアイドルとして存在したいと思っていたようである。そして、上京し実際に、先輩達のパフォーマンスをみて、より、自分たちのスタイルを納得したのかもしれない。

 こうして、事務所もぱふゅ〜むも、独自のアイドル路線を、見いだそうとしていたことは共有していたと思われる。ただし、その方向性には、ずれがあったと思われる。その一番著名なのは、グループ名を事務所が勝手にPerfumeに変更したことである。もう一つは、謎なのであるが、プロデューサーである。当初のアイドルには、事務所の中でプロデューサーを付けるのが普通である。それが、パッパラー河合であったはずだ。どうしてパッパラー河合を態々あらため、中田ヤスタカという外注にしたのか?このときの事務所の戦略は何だったのか?

 中田ヤスタカで成功した現在、こんなことを問うことは、少ないのかもしれないが、ここは、ぱふゅ〜むにとって、大転換な訳で、重要なことだと思う。単に、お金?外注でも、当時は、確かにまだ、彼は、そんなにお金も掛からなかったのかもしれないですが…。

 ともかく、ぱふゅ〜むは上京するといつの間にか、名称も、Perfumeにされ、更に全く未知のテクノポップを歌わされることになる。抵抗や不安は、かなりのものだったと思う。最早、BOYSTYLEBuzyがおり、どちらの路線にも戻れない。

「私たちは、これからこういう歌を歌っていくんだ〜?」

 ところが、この中田ヤスタカは、彼女たちの中のSPEEDと同じ成功の象徴である13画のぱふゅ〜むを、ナチュラルで気負いや衒いのない、可愛いアイドルPerfumeに上手に移行していった張本人だと私は思っている。東京BEE-HIVEインディーズのCD制作プロデュースの過程で、彼は、ぱふゅ〜むPerfumeに育てたのである。少なくとも、鐚泥のあと、アキハバラブを出した時には、彼女たちは、Perfumeというグループ名を、自分たちにとって特別で大切な名称として丁寧に取り扱っていたのであるから。